第二回 音楽プロデューサー 松尾潔スペシャル・インタビュー第2弾は、DOUBLEをはじめ、久保田利伸、平井堅、CHEMISTRY、EXILEなど、数多くのアーティストの作品を手掛けている音楽プロデューサー、松尾潔氏。氏が手掛けたサード・シングル「BED」の制作秘話や、当時巻き起こっていたR&Bブームについて、9年振りにタッグを組んだ最新シングル「残り火-eternal BED-」の話や、今後のジャパニーズR&Bの展望など、本当に多くの話を伺うことが出来たが、ジャパニーズR&Bを牽引してきた氏の発言は一言一言すべてに説得力があるし、興味深い話の数々に筆者もいちR&Bファンとして興奮を覚えながら話に聞き入ってしまった次第だ。この興奮をより多くの人と共有すべく、氏の話を出来る限り掲載した結果、かなりのヴォリュームとなってしまったが(実際のインタビュー時間、3時間半!)、他ではなかなか読むことの出来ない濃い内容に満足して頂けるのではないかと思う。 text by 川口真紀 PART I :DOUBLEとの出会い、そして楽曲「BED」プロデュースへ ―― DOUBLEとの出会いを教えてください。『冷たい月』っていうドラマの挿入歌にDOUBLEのデビュー曲「For Me」が使われていて、それを普通にテレビから聴いたのが一番最初にDOUBLEを知ったきっかけです。R&Bっぽい曲だなぁと思って聴いてましたね。その後、当時甲州街道と明治通りが交わる辺りに街頭ヴィジョンがあったんですけど、そこで「For Me」のPVが流れていたのを見て、彼女達の動いてる姿をインプットしたんです ―― 実際にDOUBLEに会ったのはいつ頃、どういうきっかけで?98年の春頃に(東京・西麻布にあるクラブ)YELLOWで鷺巣詩郎さんとR&Bイヴェントをオーガナイズしたんですよ。MISIAが初めてバンドを引き連れてライヴをやったイヴェントだったんだけど。その会場にDOUBLEが来ていて、バー・スペースで踊っていて。2人とも可愛いし、なんとなくスタイリング入ってるし(笑)、あきらかにプロっぽい感じだったんです。後から聞いた話だと、DOUBLEのA&Rが「松尾さんの近くで踊れ」って言ってたらしいんですけど(笑)。鯉がいるからエサを与えたら意外と簡単に鯉はパクっといった感じですよ(笑)。そこで彼女達の方から「松尾さんですよね」って言ったのか、僕から「何してる人なの?」って言ったのか、順序は忘れましたけど、ともかくそんな会話をして。そしたら横から「フォーライフのA&Rの○○です」ってヒューンとA&Rが出てきて、はめられた!と思いました(笑)。それで面識が出来て、その時に「仕事をお願いしたいんです」って言われたのかな? それで受けてたら僕も随分軽い男ですけど(笑) ―― その頃はちょうどR&Bブームが起こる直前くらいですよね時折りしも、SPEED全盛期であり、MISIAが時の人であり、宇多田ヒカルのデビュー前夜でした。ちょうど僕が物書きから制作の方にグッと比重が移った時期でもありました。元々僕は夜の街で出会った人達の紹介で見よう見まねで来日アーティストにインタビューするようになったり、首都圏のFM局の会議で選曲・構成担当としてベラベラ喋ってたら、自分で(番組を持って)喋ったらいいじゃんって言われてラジオで喋るようになったり。音楽が好きってだけで社会性もなにもない子供がずっと末っ子みたいな気分で色んな大人にくっついてまわっていたら、仕事が付いてきただけだったんですよ。96年くらいから久保田利伸さんのお仕事にブレーン的な立場で関わるようになり、周りにも「制作をやればいいじゃん。プロデュース向いてるよ」とか言われてたんですけど。「いや、上の人達にくっついてまわってる方が楽しいっすよ」とか言ってたんですね。今考えるとほぼプロデュースに近い仕事もやっていたけど、ブレーンっていう曖昧な言い方をすることで責任から逃れてたんです。それに気付かぬまま30を迎えようとしていて。そんな僕にいつまでもただの音楽好きなアンチャンじゃなくて、頼りにしてる人がいるっていう自覚を促してくれたのがDOUBLEだったんです。DOUBLEと同時期に他の新人アーティスト達も手掛けていましたが、僕のことを知らない人も多かったし、その子達に求められているっていうよりも、メーカーの人に求められてるって感じでした。けどDOUBLEは「松尾さんの文章をよく読んでます」って最初から言ってくれて。「好きなものは一緒だと思います」ってある意味宣戦布告的なことを言われたりもしましたが(笑)、けどそこが他のアーティストと決定的に違ったし、すごく僕のことを求めてくれてるんだなって感じましたね ―― DOUBLEをプロデュースするなら、当時どうしようかと考えていましたか?僕は「For Me」を聴いてPVも見てるのに、YELLOWで彼女達を見た時に、僕の目の前で踊ってる2人がDOUBLEだと思わなかったんですね。それが後々発想のヒントになっていて。生身の彼女達の方がよっぽど今日日(きょうび)のR&Bを体現してるのに、なぜ今出ているパッケージにはそれが入ってないんだろうと。話してみると本人達、特にTAKAKOちゃんはわりと濃い目のR&Bが好きで、スタッフが無理矢理黒っぽくしてるってよりは、逆にこの子達が薄められて世に出てるんだと思ったんです。実際シングル2枚のセールスもさほど奮わなくて、本人達もストレスが限界にきてたんですよね。当然本人達はモチベーションを失ってるわけですよ。そういうところに僕が現れて。彼女達曰く、新潟にいた頃はいつも国内盤を買っていて、好きな作品の解説はいつも松尾さんが書いていたと。確かに書きまくってた時期があったし、1年の3分の1くらいは海外に行って、こんな人がいますよって日本に紹介したりとか、大袈裟にいうと一人商社みたいなことをやってたからすごく情報を持ってたんですよ。ネットもなかったんで、動いてる人だけが情報を持ってる時代だったし。だからTAKAKOちゃん達にとっては、僕は黒人音楽との窓口みたいな存在だったと思うんですね。彼女達の中では勝手に美化された美しい窓になってたんだけど、けど近くで見ると結構立て付けの悪い窓だったりもしたわけで(笑)。自分達のやりたいことが出来ないストレスから救い出してくれるホワイト・ナイトだと思ってたら、意外と僕も芸能っぽくて、「松尾さんも私達に近いように見せかけて、結構体制側ね」って、しょっちゅうTAKAKOちゃんになじられた記憶があります(笑)。ですからその時の仕事は一作きりで終わっちゃったんですけど(笑)。君達もうちょっと大人になったらわかるってって当時ずっと言ってたんですけど、今回9年振りに一緒に仕事をしたら、年齢差は縮まってないのに、感覚は縮まったというか、同窓会みたいな感じで。「いつの間にこっち側に来たのよ」みたいなことをTAKAKOちゃんには言われましたね(笑) 次号へ続く |
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